2005年9月
マニフェスト
マニフェスト(manifesto)とは、元々は宣言とか声明書という意味だが、最近よく使われているのは、各政党が出す「政権公約」としての意味。おととし(2003年)の総選挙で民主党がこの言葉を連呼したため、あっという間に浸透・定着したコトバ。「政権公約なんて今までもずーっとあったわい、横文字にしたからって何が変わるんじゃい」とお怒りの方もいるのでは。
かく言う筆者も、何やら民主党が横文字使ってかっこつけてるな、と当時は思ったが、定義を調べたところ、微妙だが大きな違いがあることが判明した。
政権公約の方は、いわゆる「政策理念」を打ち出すもの。「社会保障の充実を目指す」なんてのがそうだ。
一方マニフェストは、「政策パッケージ」そのものを打ち出すもの。「社会保障の充実のためには予算がこれだけ必要です。我々はここを削り、こういう制度を設け、こういう保障が受けられる社会を目指します」という政策そのものが盛り込まれる。
昔から、選挙時に公約したことを破ったりすると、「公約違反」と言って地元とかマスコミとかにバンバン叩かれていた。が、マニフェストを実行しないと、世間の目はもっと厳しい。なにせ、「成績を今よりも上げます」じゃなく「毎日5時間の自習を実行し、国語で90点以上、数学で80点以上を実現します」と宣言してるんだから、現在国語が60点の人が80点取っても「公約違反」と叩かれてしまう。マニフェスト選挙は、厳しいのである。
さて。今の時代、ネットで各党のマニフェストが見ることができる。各党、どんなことを書いているだろう?
見てみて、なるほどなぁ、と思う。与党、連立政権を組む党、野党第一党、野党……それぞれの立場が、マニフェストににじみ出ているなぁ。
どこの党のマニフェストが一番、なんてことは、筆者には言えない。
ただ、曖昧なマニフェストを掲げておいて「実はあれはこういう意味だったんですよ」という後だしジャンケンみたいな真似も、大風呂敷広げておいて、政権握った途端「言ったはいいけど、現実見るとどれも無理だなぁ、どうしよう」なんて途方に暮れる真似も、「どうせ与党の賛成多数で通るんだし。対案がなければ議会を欠席して抗議だ」なんて有権者をバカにした真似も、やめて欲しいと切に思う。
汝、 その健やかなる時も、病める時も、 喜びの時も、悲しみの時も、 富める時も、貧しい時も、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、 その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか? 「……はい、誓います、って言った癖に……」 ピピッ、と音がした。体温計を抜き取って見ると、表示されている数字は38度4分。 ふすまの間から覗く隣の部屋からは、軽快な音楽が流れてくる。わたしにはタイトルもよく分からないゲーム。深夜、秋葉原の店に並んで購入したのだと自慢してたっけ。 病床から身を起こし、ゼーゼー言いながら、ふすまを開ける。テレビ画面に釘付けだった男が、振り返った。 「お、大丈夫?」 「……これが、大丈夫に見えるわけ?」 お前の目はふし穴か? 第一、あんたが会社からもらってきた風邪なのに、なんであんたは1日で治って、わたしが2日も寝込んでるのよ。 声なき声が届いたのか、男は気の毒そうに、心底心配そうに眉をひそめる。 「うーん、まだまだ苦しそうだねぇ。ごめんよ、オレがヘンな風邪もってきちゃったせいで。寝てた方がいいよ。ゆっくり休んで」 「……そうさせてもらってるわよ」 「あ、ところでさ」 心からのいたわりの言葉をかける男は、心配そうな顔のまま、こうのたまった。 「オレ、そろそろおなか空いてきたんだけど、今夜の夕飯なに?」 |
本日の教訓:マニフェスト 公約違反は 地獄行き / 世の奥様方詠む
(注:知人から聞いた話をもとにしたフィクションです。筆者宅の日常ではありません)
2005年7月
クール・ビズ
国が提唱するものにしては、珍しい位にネーミングセンスがいいな、と思ったら、一般公募だった。やっぱり。
「クール・ビズ」。「Cool(涼しい)」と「Biz(ビジネスの略)」をくっつけた造語であるが、その実態は「ノー・ネクタイ、ノー上着運動」である。
目的はズバリ、「省エネ」。夏になると、冷房のために電気消費量がグンと跳ね上がるので、この冷房温度を2度上げることで、電力をセーブしようということだ。
でも、夏は、暑い。冷房温度を2度も上げたら、全然オフィスが冷えないよ、という声が聞こえてくる。
ところが、女子社員の立場からすると、必ずしもそうではないことが分かる。何故なら、真夏の女子社員は、社内では膝掛けが手放せないからだ。男性社員に合わせた冷房温度では、女子社員には低すぎるのだ。
つまり、オフィスを冷房しすぎにしている原因は、男性社員にあり。そして、何故男性社員がこうも暑がりなのか、と言うと……その原因は、服装にあった。
ネクタイで首周りを締め付け、半そでTシャツ1枚でも暑いのに長袖の上着を上から羽織っているジャパニーズ・ビジネスマンは、歩くサウナ状態で日々働いている。暑いのは当たり前。どう考えても気温に対応した服装をしていないのだから。
で、「ノー・ネクタイ、ノー上着」である。夏なんだから涼しい格好しましょうよ、ということ。よく考えたら、至極当たり前の提言だった。
さて、この「クール・ビズ」。クールは当然「涼しい」の意なのだが、実はもう1つ、裏の意味がある。「カッコイイ」という意味である(政府がそう言ってるんだから、裏じゃなく、公式な意味とも言える)。
今着ているスーツ姿でネクタイと上着を取ったら「クール・ビズ」になるのか、と言ったら、確かに表の意味ではそうなるが、裏意味ではNG。嘘だと思うなら、やってみるといい。鏡に映った姿は、どう見ても「カッコイイ」とは言えない筈だから。
そもそも、ワイシャツという服は、ネクタイを締め、上着を着ることを前提にデザインされている。なのに、その前提を取っ払ってしまったら、酷く間抜けな服装になってしまうのだ。
だから今、紳士服売り場に行くと「クール・ビズ用のシャツ」なるものが売られている。ネクタイなしでもびしっと決まるよう工夫されたシャツである。
政府は、消費拡大も狙って、「クールな装いになるかは、あなたのセンス次第」という政策を取ったのかもしれない。
かつての「省エネルック」も、目的は同じだったが、そのあまりのセンスのなさに定着せずに終わった。一部、頑固な国会議員は、まだ着てるけど。
さて、「クール・ビズ」は、定着するだろうか?
とりあえず、スーツを着ずに会議に出ると「けしからん!」と眉を上げるような人種を思想改造することと、すっかりファッションセンスが錆付いてしまったビジネスマンをブラッシュ・アップさせることが、定着への鍵となりそうだ。
| 2005年夏、某社の平社員・田中と鈴木は、とある南の国に出張することになった。 海外旅行未経験な上、国際情勢にも詳しくない2人である。なんでこんなのに出張を任せるのか、会社側の意図はさっぱり分からないが、とにかく任されてしまったのだ。2人は、ひたすら戸惑った。 「やですねぇ。暑いんでしょ、あの国。せっかくクール・ビズで涼しい思いしてたのに、あんな暑い国でも、観光じゃなきゃスーツ必須ですよね」 田中より若干年若い鈴木がそうボヤくと、田中もうんざり顔でうなずいた。 「世界中がクール・ビズしてくれりゃあいいのになぁ。でもまあ、たった3日間のことだから、我慢我慢」 こうして2人は、右も左も分からない国に出張した。 たった1、2ヶ月でクール・ビズに馴染んでしまっていた田中と鈴木にとっては、摂氏35度でのネクタイ・上着着用は、はっきり言って地獄だ。しかし、地元民である取引先の人物は、炎天下でも涼しい顔でスーツを着こなしていた。 「やっぱ、南国に住んでると、暑さに強い体質になるんでしょうか」 「みたいだな。ああ、あちぃー……」 しかもこの国、電力事情があまりよろしくないらしく、時々停電するのだ。停電すれば、エアコンもストップする。商談中にエアコンが切れた時は、紙の上に並ぶ数字がかすんで見えなくなったほど、頭がぼんやりしてしまった。 ネクタイを取ってしまいたい。上着なんかいらん。 しかし、相手がちゃんとした服装でいるのに、そんな真似はできない。「日本じゃクール・ビズというのをやってましてね」と持ちかける案もあったが、郷に入っては郷に従え、という言葉もある。日本の理屈を押し付けるな、と言われて商談がパーになったら大変なので、ぐっと我慢した。 そんな、ふらふらな2日間を過ごし、出張最終日。取引先の社長と、現地の伝統的な料理を食べることになった。 その席に赴いた2人は、その日初めて会う社長の姿に、思わず「おおっ!」と声を上げてしまった。 「クール・ビズっすね!」 「ああ、クール・ビズだ」 社長は、ノーネクタイ・ノー上着で現れたのだ。まさに、クール・ビズ。 長袖なのが妙だが、これだけ紫外線の強い国だから、腕を覆ってしまった方が涼しいのかも。ちょっとシャツが派手な気もするが、浅黒い肌の社長には、白いシャツよりはずっと似合っている。小泉総理だって「かりゆし」をやっていたのだから、こういう柄物もアリなのかもしれない。 「きっと、日本でクール・ビズやってるの知ってて、真似してくれたんですね。俺たちが我慢してこの国の慣習に合わせたから、最後に日本に合わせてくれたんですよ」 「いい人だなぁ……日本の流行にも精通してるなんて」 「そうっすねぇ……やっぱり、ここと取引して正解だったっすね」 田中と鈴木は、社長の粋な演出に感激し、取引が成功してよかったなぁ、と心から思った。その夜の会食は、非常に和やかなものとなった。 田中と鈴木は、知らなかったのである。 インドネシアでは、バティック織りの長袖シャツが、男性の正装だということを。 |
今日の教訓:あなたの常識、世界の非常識
2005年5月
コンクラーベ
「根比べ」と似てるなぁ、と誰もが一度は思いながらも指摘できずにいたら、メディアで最初にその微妙に寒いギャグを口にしたのは、案の定、小泉首相であった。予想通りといえば、予想通り。
という訳で、一国の首相も注目のコトバ。カトリック教会の教皇を選出するための選挙のことである。教皇の死去に伴い、世界中の80歳未満の枢機卿がバチカンに集結、投票で次の教皇(いわゆるローマ法王)を選ぶ。
コンクラーベ(Conclave)とはラテン語で「鍵のかかった」という意味。その意味通り、コンクラーベで枢機卿たちは、投票所であるシスティーナ礼拝堂に、ほぼ軟禁状態にされる(現在は「マルタの家」に滞在するらしいが、結局それも軟禁に近い)。
教皇決定まで、外部との連絡は禁じられており、現代らしく、盗聴や携帯電話への対策も万全らしい。妨害電波まで用意しているというのだから、その徹底ぶりたるや、ちょっとやりすぎじゃないの、と思ってしまうほど。マスコミ泣かせなシステムだ。
なんだってそんなに秘密にするのだろう? 投票の経緯を知られると、何かまずいことでもあるのだろうか。
隠されると、覗きたくなる。これは人間の浅ましい本能である。でもまあ、全世界のカトリック教徒を束ねる教皇を選ぶという選挙なのだから、覗いたところで、ただ粛々と選挙が執り行われているだけだろう。
……多分。おそらくは。
| むかしむかし。とある国の、偉大なる国王が亡くなった。 この国では、国王は世襲制ではなかった。その昔、無能な2代目のせいで、国が大きく傾いてしまったことがあったので、その次の代から世襲制は廃止になったのだ。 では、どうやって次の国王を決めるのか。 実は、この国では、国中の領主の中から、話し合いによって次の国王を選出するのである。 国王が死去して間もなく、国中から領主という領主が、王宮の広場に集められた。 新国王誕生の瞬間に立ち会おうとする大勢の一般国民が取り囲む広場の中央で、高級な喪服に身を包んだ領主たちは、一昼夜、偉大なる国王の死を悼んで祈りをささげた。 そして翌日、いよいよ、新国王選出のための話合いが始まったのだが……。 「わたしは15年にわたり領主を務めておりますが、この15年間の我が領地の作柄は、国でもトップ5に入るほどでして……」 「そうは申されるが、あなたの土地は、元々国内で一番肥沃で恵まれた土地でしょうが。それに比べて私は、荒れ果てた土地を前領主から譲り受け、それをここまで……」 「作柄の自慢話では埒が明きません。第一、これからは商業と工業で近代化を図っていくべきですぞ。その点、うちは国内トップの商業都市ですし……」 「何を言うか。ここ100年、北部の領主ばかりが新国王に選ばれてきたではないか。いい加減、南部の領主にも回していただかなくては」 穏やかに始まった筈の話し合いは、次第に泥沼化の様相を呈し始め、領主たちの目は、だんだん血走ってきた。 それに加えて、見物している国民が、自分の出身地の領主を応援しようと野次や声援を飛ばすようになり、厳かなムードだった王宮広場は、日が暮れる頃には、どこかの国の野党と与党の野次合戦のような感じになってしまっていた。 西の領主が、東の領主の頭を叩いたのが発端だったのか。 それとも、北の領主が、南の領主のカツラをひっつかんで放り投げたのが発端だったのか。 深夜には、領主同士の掴み合いの喧嘩が始まり、その興奮は、見物している国民にも広まった。 貴賎入り乱れての乱闘に次ぐ乱闘。 殴られて地面に転げる者、髪を毟られてわんわん泣き喚く者、お前の母ちゃんデベソなどという低俗極まりない侮蔑を言い合う者、その場のムードに怯えてしまいマントの下に隠れている者―――そんな状態が延々続いた。 そして、空が白み始める頃には、誰も、文句を言う気力すらない状態に陥って。 「……もう、エラソーダ州の領主でいいんじゃないの?」 という議長の言葉が、そのまま決定事項となり、新国王は、うやむやのうちに決定してしまった。 こうして、新国王が誕生し、国は再び平和を取り戻した。 ……筈もなく。 こんな成り行きで決まった国王なんて誰が認められるか、と国民は大激怒。各領主は、それぞれの地元の民衆から、国王決定会議の時の情けない姿を非難され、多くの領地で暴動が発生。国内は大混乱に陥った。 こりゃいかん、と一致団結した領主たちと国の軍隊が、次々に発生する民衆暴動をおさめて回ったが、国がようやく落ち着きを取り戻すまで、実に2年もの歳月がかかってしまったのだった。 以来。 この国では、新国王決定会議は、非公開とされた。 王宮の奥深く―――そこで、どんな会議が行われているのか、国民は全く知らない。 |
本日の教訓:人間、知らない方が幸せなこともある。
(この話は、あくまでフィクションです。カトリック信者の方、お願いですから本気で怒らないで下さい……いや、ほんとに)
2005年3月
バイオメトリクス
「バイオメトリクス」とは「生体認証」のこと。指紋とか静脈とか目とか声とか、そうしたもので個人を識別するシステムを、こう呼ぶ。
キャッシュカードやクレジットカードの偽造は、随分と前から行われていたスタンダードな犯罪だが、最近ではあらゆる方法を駆使して、最後の砦の筈の暗証番号を入手する犯罪が多発している。ゴルフ場を舞台とした事件以来、ATM機の前に立つとつい隠しカメラの姿を探してしまう癖がついてしまった人は、少なくないだろう。
カードは偽造されてしまう。暗証番号ももうあてにならない。そこで登場したのが、バイオメトリクスだ。
指紋のように1人1人異なるものを、大切な財産を守る最後の鍵としてしまえば、本人にしかその鍵を開けることはできない、という理屈。なるほど。もの凄く安全な方法だ。
ただし、もの凄く安全な方法というのは、もの凄く不便な方法ともいえる。銀行口座の名義人にしか金の引き出しができなくなるのだとしたら、夫の銀行口座から家計を引き出して家計管理をしている妻はどうなってしまうのか? 会社名義の口座なんかも、社長の情報で登録してしまったら、経理の女の子はどうすりゃいいのだろう?
「大丈夫、生体情報だって、結局はコンピューターに取り込まれた時点でデータに変換されるんです。そのデータを記録したカードを使えば、本人じゃなくても認証パスできますよ」
……いや……それじゃ意味ないんじゃあ……。
| その日、男は、ちょっとした不幸に見舞われた。 仕事中に無意識に目を擦ったせいか、目にできた“ものもらい”が悪化して、前がよく見えないほどに目が腫れ上がってしまった。 考え事をしながら煙草を吸っていて、うっかり長くなった灰を書類に落としそうになり、咄嗟にそれを手で受け止めて、手のひらに派手な火傷を負った。 元々風邪気味だったところに、夕方から雪まで降ってきたため、本格的な喉風邪をひいてしまった。 1つ1つの不幸は、さして大きな不幸ではないだろう。 しかし―――真の不幸は、この後に……彼が営業先から会社に戻ってきた時から始まるのだった。 『社員確認をします。眼鏡を外し、センサーに右目を近づけて下さい』 1階の受付にそびえたつ、無機質な銀色のドア。その横に設けられた社員認証システムは、男に無理難題を強いてきた。 このシステムは、社員一人一人の右目の虹彩パターンを記憶しており、その記憶されたパターンと来訪者の虹彩を比較、同じものがあれば社員とみなして扉を開ける、という仕組みである。だから社員は、出社時や外出先から戻った時、必ずこの装置のカメラ部分に右目を近づけて、社員かどうかのチェックを受けなくてはいけないのだ。 男の右目は、今、パンパンに腫れ上がっている。目も半分開いていないような状態だ。 ―――こんな状態で、虹彩なんて読み取れるのかよ。 不安に思いながらも、男は、腫れ上がった右目をカメラへと近づけた。普段なら、すぐに青い光が見える筈なのだが、今の男の目には、瞼の下から僅かに射し込む青白い光がなんとか見えるだけだった。 『認識不可能。もう一度はじめからやり直して下さい』 やっぱり無理だった。 社内の人間に連絡を入れて迎えに来てもらおうと、インターホンで呼び出してみた。ところが、いつもなら数人まだ残業している筈の時間だというのに、反応なし。雪の影響で交通機関がストップするのを懸念して、ものの見事に全員帰宅してしまっていたのだ。 もう会社に戻るのは諦めた。男は深いため息をつくと、俺も電車がストップする前に帰るか、と心の中で独り言を呟きながら、硬く閉ざされたドアの前から離れた。 『住人チェックをします。部屋番号とお名前をどうぞ』 自宅マンションのエントランスで、マンション管理システムが、またもや男に無理難題を強いてきた。 別段高級マンションな訳でも、政府要人が住んでいる訳でもない。ここ5年以内に建てられた家ならば、こうしたシステムがついているのが当たり前。20世紀に建てられた古めの建物だって、後づけでどんどん設置している。おかげで空き巣被害は激減したし、不審者が独身女性の部屋に押し入るなんて事態も稀な事件になったのだ。 しかし―――よりによって音声認識システムのマンションを選んでしまったのは、ちょっとまずかったかもしれない。 風邪の悪化で声の出ない男は、ゲホゲホと苦しげに咳をしながら、こんな声でも認識できるのかよ、と不安を覚えた。 「502、池田信之助」 ほとんど聞き取れないほどの掠れた声で、機械に向かって部屋番号と名前を告げる。直後、集音マイクの横のランプが赤く点灯した。 『認識不可能。もう一度どうぞ』 「……502、池田信之助」 一旦消えた赤ランプが、また点灯した。 『認識不可能。もう一度どうぞ』 「5、0、2、いげだじんのずげっ!!!」 必死に怒鳴ったのに、その声は内緒話に最適レベルにしかならなかった。叫んだせいで、喉の奥が大量の唐辛子でも飲み込んだみたいに痛い。思わずまた咳き込む男の目の前で、無情に赤ランプが点灯した。 『認識不可能です。不審者アクセス。管理会社に通報します』 淡々としたアナウンスに、ギョッとして目を見張る。 そうだ、忘れていた―――3回認識不能を起こすと、機械の故障もしくは不審者が無理矢理乱入しようとしているとみなして、自動的に管理会社に通報がいくのだ。入居したての頃、機械の故障でこの事態を一度経験している男は、この後に待ち構えるものを想像して、ぞっとした。 駆けつけた管理会社の連中がまず最初にやることは、侵入しようとした人物が果たして本当に住人かどうかを確認することだ。 その際使うのは、このエントランスと同じ音声認識システムだ。本人の言葉なんてあてにならないし、免許証やIDカードは偽造されるものと相場が決まっているから。 住人本人と確認されれば問題ない。しかし…本人確認ができなかった場合は、そのまま警察に突き出す。それが管理会社のマニュアルに規定された正規の手続きだ。 ―――冗談じゃない、自宅に帰ろうとしただけなのに、警察なんかに突き出されてたまるかっ! 管理会社が駆けつけるまでの猶予は、僅か5分。男は、自宅に帰ることを諦めて、赤ランプが点灯したままのエントランスから逃げ出した。 辺りはすっかり漆黒の闇に包まれていた。 ようやく雪の止んだ2月の街を、男はコートの襟を精一杯寄せて歩いていた。だるい。もの凄くだるい。どうやら風邪が更に悪化して、熱まで出てきたらしい。 会社には潜り込めない。家にも帰れない。けれど、この寒さの中、屋外で一晩過ごしたりすれば、体調が体調なだけに明日には死体となって転がっていること確実だ。かくなる上は、とるべき行動はただ1つ―――どこかホテルに泊まること。 ところが男には、大きな問題があった。とりあえず腹ごしらえを、とファミレスで夕飯を食べた結果、手持ちの現金が3千円あまりになってしまったのだ。 勿論、クレジットカードは持っている。が、また運の悪いことに、男が使っているクレジット会社の本人確認も音声認識。ホテルのフロントでカード会社のマイクに向かって名前を怒鳴った結果、どんな事態に陥るかは想像に難くない。 そんな訳で、男が向かったのは、銀行のATMコーナーだった。 キャッシュカードをATMに挿し込むと、液晶パネル横にある手の形をした台のランプが点灯した。 『読み取り機の上に、左手の手のひらを置いて下さい。掌紋をチェックします』 掌紋とは、手のひらの皮の隆起の紋様のことで、指紋と同じで1人1人異なっている上に一生変わらない。暗証番号代わりに、今は掌紋で本人確認をするのだ。 やれやれ、とポケットに突っ込んでいた左手を引っ張り出した男は、その段になって、重大な事実に気づいた。 左手の手のひら中央に、まるで手相を覆い隠すように貼られた、大きな絆創膏―――煙草の灰を受けて派手に火傷をしてしまった際、今日訪問した客先の事務の女性が手当てしてくれたものだ。 「……まずい」 このまま読み取り機に乗せたところで、読み取れないのは目に見えている。 かといって、絆創膏をはがすのには、かなりの勇気がいる。昼間、客先で出されたお茶を飲んだ時のことが思い出される―――普段なら何ともない温度に温まった湯のみが、男にとっては凶器だった。火傷した場所が湯のみに触れると同時に激痛が襲ってきて、男は悲鳴とともに湯のみをひっくり返してしまったのだから。 『読み取り機の上に、左手の手のひらを置いて下さい。掌紋をチェックします』 踏ん切りのつかない男を急かすように、ATM機がまた指示してくる。絆創膏に覆われた手のひらをじっと見つめ、男はまだ迷っていた。 『読み取り機の上に、左手の手のひらを置いて下さい。掌紋をチェックします』 『読み取り機の上に、左手の手のひらを置いて下さい。掌紋をチェックします』 『読み取り機の上に、左手の手のひらを置いて下さい。掌紋をチェックします』 度重なる催促に、男は負けた。 べりっ、と絆創膏をはがすと、一部傷にくっついていたのか、かさぶたを無理矢理はがしたような痛みに襲われた。半分涙目になりながら確認すると、手のひらの真ん中、直径1センチほどの生々しい火傷の痕から、僅かに血が滲み出していた。 こんな傷があって、果たして掌紋の照合ができるのかどうか、ちょっと不安がよぎる。 でも、やるしかない。 このまま現金を引き出すことができなければ、2月の寒空の下で凍死決定だ。 意を決した男は、痛々しい傷跡のある左手を、半ばやけになって読み取り機の上に置いた。 『掌紋チェック開始』 無機質な声と同時に、読み取りランプの光が、男の手のひらを舐めていった。指のつけ根辺りから順に、僅かに熱を持った光が、男の掌紋を読み取っていく。 ランプが発する熱は、普段なら気にならない程度の熱の筈だ。しかし、今の男には、これすら凶器だった。 コピー機よろしく、オレンジ色の光が火傷痕を掠めた途端。 「だああああああっ!!!」 激痛。 火傷の上から更に火傷を負ったような痛みに、男は断末魔のような叫び声とともに飛びすさった。もっとも、腫れ上がった喉から搾り出されたその叫びは、掠れていてほとんど聞こえなかったのだが。 掌紋を最後まで読み取れなかった読み取り機は、赤ランプを点灯させると同時に、無機質な声で告げた。 『掌紋不一致です。もう一度はじめからやり直して下さい』 「うるせええぇっ!」 頭に血の上った男は、左手の痛みのせいで震えてしまっている右の拳を、怒りに任せて読み取り機にめりこませた。 液晶でできた読み取り機は、男のパンチを食らって破壊された。直後―――ATMコーナーのシャッターが閉まり、ビーッ、ビーッという耳をつんざくような警報音がATMコーナーの狭い空間に響いた。 『緊急事態発生、緊急事態発生、警備会社ニ通報シマシタ』 男の不幸な夜は、まだまだ続く―――……。 |
本日の教訓:生体認証時代では、ケガや病気はタブーかも。(そうならない技術を開発しましょう)
2005年1月
ニート
「ニート」とは「Not in Employment, Education or Training」の略で「NEET」。という訳で、直訳するなら「就職しておらず、学校にも通っておらず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」人のことを言う。
昨年辺りから、就業率関係のニュースになると必ずこの言葉が引き合いに出されるようになった。そろそろ認知度も上がってきたというところだろうか。
その昔、「プータロー」というどうにもセンスのないコトバが流行っていた時代があった。いわゆる就職浪人がこう呼ばれていたのだが、この情けない響きからも分かるように、就職できないことは当時かなりショッキングなことだった。プータローになってしまった若者は、正社員になることを夢見つつ、アルバイトに励んだ。そんな時代だった。
しかし、景気が悪くなったせいか、若者の就業意欲が低下したせいか、しばらくするとプータローは「フリーター」という、ちょっとカッコ良さげなコトバにとって代わられた。フリー・アルバイターの略で、正社員にはならないし、特定の仕事には就かないけれど、アルバイト先を転々としながら食い繋いでいる人をこう呼ぶ。
プータローとの大きな違いは、彼らの多くが「望んでフリーターでいる」という点だ。就職したいけど無理、という人もいるが、フリーターの方が楽、という若者が急増したため、こうした言葉が生まれたと思われる。
そして新たに登場したのが「ニート」である。これはフリーターよりもっと辛い。学校に行っていない上に、アルバイトもしていない。じゃあ何をしてるんだ、となると、実は何もしていない。親に養われながら、無目的に生きているのである。
就職する年齢になってもアルバイトしかできないのが「情けない」時代のプータロー。「別に生涯アルバイトでもいいじゃん」という時代になったフリーター。そしてアルバイトすらしない人種が増殖中の現代のニート。若者は、どんどん何もしなくなっている。
本来許されないことが、コトバが生まれるほどに蔓延しているのは、そうした若者を養っているくたびれた親がいるからなのだが、ニートたちがくたびれた親になる頃の日本を想像すると、かなり怖いものがある。
できればその前に日本を脱出したいと思うのは、私だけだろうか?
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雨にも負けて |
本日の教訓:ニートと呼ばれたら恥だと思え。間違っても「僕、ニートでーす」などと喜ぶなよ、新成人。